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真明芦津のはじまり

天理教芦津大教会初代会長、井筒梅治郎は、大阪・西成郡九条村(現在の大阪市西区本田)で綿商を営んでいました。ここには明治初年頃には外国人の居留地があり、海外からさまざまな文化や製品が集まる正に「文明開化の中心地」。初代が営む「播清(はりせい)」は職人を10数人も抱える有力な商人でした。
社会的地位もあり、周囲からの信頼も厚かった梅治郎でしたが、大きな悩みがありました。それは、生まれてきた子供が次々と亡くなることです。
明治12年、梅治郎が41歳のとき、女の子の赤ちゃんが生まれましたが、生後3カ月たった頃から身上(病気)となりました。これまで子供を次々と亡くし、ようやく授かった一人娘。どんな医者にも見せ、治療を受けましたが、まったく効はなく、大峰山信仰を熱心に信仰していた梅治郎は、自ら護摩を焚いて祈祷もしましたが一向に効かず、病状は次第に悪化するばかりでした。
当時、井筒家の隣に染物屋があり、その店に出入りしている人に前田藤助という方がいました。この方は天理教教祖・中山みき様から「あんたは種市さんや。種を蒔くのやで。種を蒔くとは、あちこち歩いて天理王命の話をして回るのやで」と仰せいただいた方です。種市は、井筒家の子供の病気のことを聞きつけると、水をかぶり一心に「なむ天理王命」と唱えて祈り、はったい粉の御供(ごく)を頂かせると、子供の身上は鮮やかに御守護いただきました。
梅治郎は、この不思議なたすかりを目の当たりにして驚き、天理教を熱心に信仰するようになりました。
翌明治13年4月、梅治郎夫婦は娘を伴って、初めて教祖のおられるおぢば(現在の奈良県天理市)へ向けて出発、途中一泊して翌日夕方、おぢばに到着しました。
教祖は、
 「おまえさん方は、大阪から来なさったか。珍しい神様のお引き寄せで、大阪へ大木の根を下ろして下されるのや。子供の身上は案じることはない。」
と、仰せになり、子供の身体の少し癒え残っていたところに、お紙を貼って下さいました。子供は間もなく、全快の御守護を頂きました。
梅治郎の信仰は、教祖にお目にかかった感激と不思議なたすけからより一層激しく燃え上がり、人だすけの道へと進んでいきました。
梅治郎は近くに病人があると聞くと進んで赴き、親神様の御守護と自分の娘をたすけていただいた喜びを説き、願をかけました。すると不思議にも、次から次へと病気がたすかりました。
たすけられた人は、同じように御恩報じに人だすけに励みました。本田界隈で天理王命の神名は瞬く間に広がり、井筒家はおたすけを乞う者で門前市を成すような有様で、井筒家のすぐ近所からは、東京、遠州、神戸へ道を伝えた人など、多くの方がこの道に足を踏み入れました。

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